宗教を超えた真実の言葉
皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
今日も「こころの深呼吸」を読んでいます。
気になった文章は何度か読み返して、心にしっくり来るまで考えながら。
私はキリスト教徒ではありません。
どちらかといえば、幼い頃から仏教に慣れ親しんできました。
キリスト教が気になり始めたのは、高校生の時に三浦綾子さんの「細川ガラシャ夫人」を読んでからだった記憶があります。
悲しむ人は幸いです。神の慰めがたくさんあります。
この文章に、一種カルチャーショックのような衝撃を受けました。
悲しい時、苦しい時、
仏教では仏様を拝み
キリスト教では神様に祈る。
幸せな時も、見守ってくれている人達やご先祖様、宗教を超えた何らかの大きなものに感謝をする。
片柳神父様の「こころの深呼吸」を読んでいると、宗教や思想、時代の違いを超えた、真実の思いを感じます。
きっと、色々な経験をし、多くの人々に寄り添ってこられた上での言葉だからでしょう。
目まぐるしく移り変わる今の時代でも、揺るがない自分の信念と使命を見つけること。
簡単ではありません。
急にできるようになることでもありません。
だからこそ、少しづつでも経験を重ね、自分自身に問いかけ続けることの大切さを、改めて感じます。
宗教を問わず、たくさんの方々に読んで頂きたい本です。
愛に満ちた言葉の数々
皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
昨夜、心待ちにしていた本が届きました。
片柳神父様が書かれた『こころの深呼吸~気づきと癒しの言葉366』です。
以前からTwitterで見かけて、気になっていました。
どんな言葉が綴られているのだろう。
ワクワクしながら本を開きました。
数ページ読み進めた段階で、昔の自分を思い出しました。
心驕っていた子供の頃に、この言葉に出会っていたら・・・
反省させられると共に、「今から実践しても遅くない」という勇気をもらえます。
心の表面を撫でるような、心地よい言葉の羅列ではありませんでした。
しかし、片柳神父様の深い愛に満ちた、ある意味厳しい言葉も、心にスッと入ってきます。
自分の今までの過ちを認める。
耳の痛い文章も、素直に読むことができる。
愛のこもった言葉なればこそ、率直に自分の思い上がりに気づき、これからの自分の人生に活かそうと思えるのです。
心から有り難いと思える本に出会うことができました。
豊かな人生と 豊かな愛
皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
最近は、映画「サウンドオブミュージック」のDVDを何度も観ています。
作中、主人公マリアがある男性への愛に気付き、戸惑っている場面があります。
修道院長がマリアに呼びかけます。
男女の愛もまた尊いものです。
人を愛したからといって、神への愛が減るわけではありません。
人間は大きな愛を持って生まれ、周りからの愛によって育ちます。
私は今まで沢山の人から与えられた愛を、なんと蔑ろにしていたことでしょう。
そう気付いたのは、今の夫と出会ってからでした。
夫が大きな愛で私を包んでくれていること。
自分の中にも愛というものが存在すること。
人と比べれば、小さな愛かもしれません。
しかし、以前の私から見れば、着実に愛が育っていたのです。
豊かな人生とは、豊かな愛で彩っていく人生なのだと、私は思います。
ゲシュタルトの祈り
皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
ご家族やお友達でも構いません。
自分の期待が裏切られてガッカリする、という経験は、誰もがしたことがあるでしょう。
1900年代半ば頃、心理学者のフリッツ・パールズは「ゲシュタルト療法」を確立します。
それを要約したものが、下記の文章です。
私は自分のことをし、君は君のことをする。
私は君の期待に応える為にこの世界にいるわけではないし
君にしても私の期待に応える為にこの世界にいるわけではない。
君は君で、私は私だ。
そしてもし偶然私たちが出会うことができたなら
それは素晴らしいことだ。
そうならないとしたら、それはそれで仕方のないことなのだ。
自分自身の欲求に従って生きることと、他者による充足を求めないことの重要性が説かれています。
人間の多様性が問題となっているこの時代、文化も違う人々が一緒に働く上で、自身が過度な期待をし過ぎないことが、潤滑な人間関係を保つのです。
世界は祈りで満ちている
初めまして、カテアと申します。
まずは、千葉や伊豆大島で未だ苦しんでいらっしゃる被災者様に、心よりお見舞いを申し上げます。
そして、昼夜問わず復旧に全力を尽くしてくださっている各業者の方々のご無事を願っております。
SNS上でも、同様の祈りを捧げておられる方を、多く目にします。
祈るだけでは状況は変わらない・・・
そう思う方々も多いでしょう。
しかし祈りは、苦しんでいらっしゃる方の心に寄り添うこと。
貴方は独りではなく、いつも誰かが気にかけていますよ、というメッセージ。
私がこうしている時も、夫、両親や友人、顔も知らないどなたかが祈ってくれているかもしれない。
特に自分が苦しい時、こうした祈りにどれだけ救われたことでしょう。
世界中の皆さんが、大切な人の為に、いつもどこかで祈っている。
他人の幸福を願う心というのは、尊いものです。
何の打算も計算も無い、心からの祈りです。
そうして、自分の周り、属する社会、国、世界へと祈りは繋がっていると信じます。
今月2回目の三連休、また雨の予報が出ています。
これ以上被害が拡大しないように、今夜も祈りを捧げます。